ガーデン・シティ・ライフ・ログ

ジュビロ(Jリーグ)とか、野外フェスとかアートとか、庭園巡りや町歩き記録。

ジオシティーズからはじまった僕の20年。成功体験と人生と。【ジオシティーズ終了によせて】

長文ですが、この20年のタイムラインを振り返る個人的にはめちゃめちゃエモい文章です。
自分はバズる文章は書けないけど、今回のものは『20年間ウェブ・ログを書いている』人間にしか書けないエントリだと思います。(今年全然書いて無いけど)

最近知り合った人・昔からの知り合い。ネットでしか繋がっていない人・リアルで繋がっている人。
最近も会っている人・しばらく会っていない人。音楽つながりの人・そうじゃない人。仕事で関わっている人・そうじゃない人。
色んな人に読んでもらいたい――というか、「なぜこの人がウェブの仕事をしていて、音楽というコンテンツが好きなのか」の根源的なことがわかるエントリだと思うので、一つの体験談として読んでもらえたら嬉しいなーと思います。(そしてもうこんなエントリはもう書けない気がする。近年載せている旅行記は「誰かに読んでもらいたい」という欲望はほぼ無い)

1998年10月11日

20年前の今日。皆さん何してたか覚えてます?
※ちなみに15年前の今日はミッシェル・ガン・エレファントのラストライブの日でした。

先般、10月1日にジオシティーズからメールが来ました。

【重要】Yahoo!ジオシティーズ サービス終了のご案内

info-geocities.yahoo.co.jp(…ていうか、まだ終わってなかったんだっけ…)

ああ懐かしいなあ。当然(?)自分もジオシティーズで「ホームページ制作」を覚えた人間です。
まだ終わってなかったってことはまだ当時作ってたHPはあるのかな?

4桁の数字

…でもURLを覚えてない。

Yahoo!ジオシティーズ」になったのは2000年。当時使ってたIDと現在のヤフーIDは別物なので、紐づいていない。
たしかジオシティーズのURLって末尾が下四桁の数字でした。(覚えてます?)

自分はこの数字を覚えている。7***。

「4桁のパスワード」という時に誕生日にしたりする人って多いと思うのですが(だって他に思いつかないもんね)、自分はこの時の4桁をその後の人生で結構パスワードに使っていますw(そういう4桁が幾つかある。今の会社では使っていないけど。)
ちなみに自分でホームページを作る前に出入りしてたサイトの末尾は「5188」だったと思うなぁ。

※ちなみに。今もはてなで使っている「airgyan」というIDは1998年当時に使っていたハンドルネーム(日本語)を無理やりアルファベットにして取得したもの。今このID名でググっても、世界的に見てもかぶっていない。20年経ったのに。

20年経って

で、[ geocities (その数字) (当時のハンドルネーム) ]で検索してみたら。

……引っ掛かったよ当時のサイト……。
ああ、こんなサイト作ってたっけ。

もう消えている・リンク貼っていないコンテンツもあったけど、
cgi(死語?)のウェブ・ダイアリーではない、1998年10月11日に直でhtmlを打ち込んだ人生初めてのウェブ日記?所信表明のテキストが残ってました。

これです。

「いつかはすごいホームページを作りたいと思っています!」(←無邪気)
「誰のファンクラブに入っているわけじゃないからきついかなあ・・・(アーティストの)専門HPは・・・」

…全体的に顔から汗が吹き出そうなぐらい恥ずかしいものなのでリンクは貼らないのだけど(笑)
…お前その約10年後、その頃毎月買ってた雑誌、その雑誌が音楽雑誌で一番のセールスを達成するメディアになるんだけど、その会社のWebメディアを自分主体で作ってるよ。
その後も、お前が大好きな●スチルの事務所の関連しているコンサートのウェブサイトも仕事で担当してるし、音楽仕事きっかけで●井さんともフットサルしたよ。
(※当時フジロックはあったけどまだ「フェス」は遠い存在だったので一旦置いとく)

お前すげえなあ。良かったなあ、目標がかなって。
…あまり自分で自分を認められないネガな性格なんだけど、「お前すげえなあ」ってちょっと言いたくなった。

10代の頃のウェブ日記(ブログ)なんて闇歴史以外の何者でもないんだけど(笑)、20年経った今だから、一歩引いた目線で見られる。

GPAPEVINEというバンド

で、この2ヶ月後の1998年12月に「GPAPEVINE」というバンドのホームページを開設しました。
GRAPEVINE。音楽絡みのお仕事で繋がった方は皆さんご存知のバンドかと思います。そうじゃない知らない人はググってください。(便利な時代だ)

作ったのは誰の許可もとってない「非公式ファンサイト」ってやつ。
今となっては「公式ホームページ」なんてものは当たり前のものだしTwitterさえ始めればそれがホームページになるけど、当時はまだまだそんなものは少なかった。
GLAY(たしかHISASHIが早かった)やゆずはあったけど、ミスチルはなかったはず。しかもゆずも寺岡呼人さんが趣味で作り始めたんじゃなかったか。
ファン同士のコミュニケーションは「非公式ファンサイト」が主体だったし、下手したら情報もそちらの方が早かった。

そんな「GRAPEVINE」ですが、1999年に入るとMステやHEY!HEY!HEY!でも披露された代表曲“スロウ”でちょっとブレイクします。なお確か同じ発売日で大ブレイクを果たしたのはヒスブルです。♪そういうことならもう一度なんとやら〜。ゆずの“いつか”やミスチルの“DISCOVERY”も同じ日に発売日だったような。こんなによく覚えてるのは「予約してCDを買っていたから」だねぇ。


一面田んぼのあぜ道を毎日往復するような、浜松の片田舎で暮らし(今は有名な「さわやか」や巨大ショッピングセンターが出来て見違えっている)。東京・名古屋・大阪でのシーン(店舗やライブやFMや)の盛り上がりなんて知らない、300人ぐらいいる同学年で友達とか5人ぐらいとしか共有できない狭い狭い世界――だったけど、テレビに出始めてGRAPEVINEも世の中に知られ始めた。(世の中っつってもその狭い学校内の話です)
…そんな人気の出始めたバンドのメンバーが、自分のホームページのチャットに急に登場した。その時エピソードはこれです。
みんなが知ってるTV番組にはあまり出ずに夜中の(しかも数週遅れて)放送される番組でしか見られない。そんなレアキャラ(でも雑誌では今後、みんなが知っているヒット・チャートでも売れるであろう注目株と言われている)が、浜松の片田舎で暮らし(大事なことなので2回言いました)の自分のホームページに来る。自分ちの目の前に古墳があるような(実話。レキシのようなネタではなくほんまもんの県指定の文化財ですw)、そんな浜松の片田舎の自分のホームページに…。

大げさではなく、「人生が変わった初めての成功体験」はこれだったと思う。

当時「事務所やレコード会社に行動が管理されているはず」というような知識ぐらいはあったので、「絶対そんな勝手な行動とるわけない」と疑っていたのだけど、今で言う解禁前の情報をチャットに暴露し(ライブスケジュールや新曲情報w『光について』『Lifetime』はそんな作品です)、去っていき、そして後日J-WAVENACK5?の番組内でその時のことが話される――という風に繋がっていく。
そしてその評判でまた自分のホームページに人が増える。

なぜウェブの仕事を志したか。今もやっているのか。
本当にこの体験がすべてだったと思う。
あの体験で、「ファンとアーティストが、事務所やレコード会社という垣根を通さずに交流するのが普通の時代が来る。というか、来ないはずがない」と思った。
アーティストもファンの反応は気になるみたいし、どうやら感謝してくれている…ファンも当然アーティストとコミュニケーション取れる場なんてお金を払ってでも体験したいはず…需要と供給が一致する。

ブログやmixiが流行った時代はまだそうなり切れなかったけど、Twitterが流行ってから完全にそうなった。
それはブログやmixiのサービス云々というよりも、音楽業界が衰退しガチガチに縛れなくなったというタイミングも影響していると思う。そして今や、すべてが無料化するわけではなく一定のビジネスと成り立っている(むしろライブが一般化して市場が伸びている)。
ほんとーに今は良い時代だと思う。

そのGRAPEVINEのホームページは高校卒業を機にやめた。バンド自体は好きだったけど、まあ高校生なので色んな音楽を次々と好きになったし、その中でホームページを更新することに飽きたんだと思う。
後年、そのメンバーも脱退してしまったので、仕事で音楽関連のウェブ制作をするようになりそれこそ会社のイベントにGRAPEVINEが出てたりしても、「実は昔ホームページを作っていたんです」なんてさらけ出す機会もなく今に至ります。

あ、このネットでの成功体験が一つだとすると。
GRAPEVINEがテレビに出始めて、クラスでも「なんとかバイン、良いって言ってたよね?CD貸して」ということが起こっていく。バインに限らず色んなバンドで。
ニッチだと思っていたものをフックとして、新しいコミュニケーションが広がってゆく。「あいつ音楽詳しい」というラベルが貼られる。更に突っ込んだ言い方するとそれが存在意義になる。(存在証明を〜ってアジカンみたいな話ですが。)
変な話、これが「リアルと連動した成功体験」だったようにも思う――背が高いわけでもイケメンでも秀才でもスポーツが上手い訳でもない。その中でのポジショニング方法。だから高校の学園祭でも、演奏したのは、ハイスタ、ミッシェル、バイン、oasisトライセラNIRVANAってやったっけ?、そしてまだメジャーデビューもしていない(“天体観測”のずっと前の)BUMP OF CHICKEN。ニッチでもわかる人がわかるのが一番良い、という感性はこの頃に固まった(固まってしまった)と思う。

…でも当時、くるりクラムボン(という後にビッグ・アーティストになる2組)のフリーライブのチケット2枚持ってて、誘ったけど誰も来てくれなくて…一人で行って。「これはいい!!」と思うコンテンツは見つけられてたけど、今で言う「インフルエンサー」ではないのよなー自分という人間は。そういう才能はない。
なおそのライブは隣で見てた女の子と会話して連絡先を交換した淡いエピソードもありましてね。当時彼女居たから発展しなかったけど。でもこういう出会い(恋愛的な意味ではなく、人との広がり)があるんだっていう世界を、音楽やライブというものは広げてくれた。

商才 #とは

当時からホームページには広告バナーを貼ったり、これはこの辺に配置した方がクリックされるんじゃないか?とデザイン・レイアウトを考えたり、当時はさすがにGoogle Analyticsはなかったけどcgiの解析ツール見て「どのコンテンツとどのコンテンツが相性が良いのか」みたいなこと考えながら運営していた。

当時の自分にとってはこれらは「ゲームのようなもの」だった気がするし、正直「仕事」になった今もその延長線上の感覚かもしれない。
このホームページ、何をどうしたらアクセス数が伸びるかな――見た目かもしれないしシステムかもしれないしその為には今の使われ方を知りたい…テレホタイム(死語)にそんなことやってたから大学受験もしなかったんだけど。

今やそんなことのすべてが、「Webプロデューサー」「Webディレクター」「Webアナリスト」「Webデザイナー」「フロントエンジニア」みたいなカッコいい横文字で職業になってるのだから、なんだろう…羨ましいというのがいいのか、自分がその横文字を名乗る違和感から未だ抜け出せていないというか。
(…高校生の頃に地元の企業に売り込んでたらもっとお小遣いになってたのかもなぁ。)

一方で、地元・浜松のBOOK ●FFやGE●のような中古CD屋さんで、数百円でレア盤を買い、ヤフオクで数千円で売る。なんてお小遣い稼ぎもしてました。なお当時もヤフオクは18歳以下禁止だったので、年齢を偽って登録したアカウントが現在も使っているヤフーのIDです(笑)これも好きだったバンドの名前。

そんな風にネットの広告や「仕入れて販売する」…という仕組みで一定のお小遣いは稼いでいたけど。
20年経ってみて。おそらく似たような形でネットビジネスを覚えた「IT社長」のようにはなれていない。そして多分永久にならない。
(ちなみに僕にヤフオクを教えてくれた当時の彼女は一流大学を経て大企業に就職しているので、順調ならばきっと年収は倍ぐらいいってるんじゃないでしょうか。もうわからないけど。)

当時稼いだお小遣いも、全部名古屋や東京へライブに行くためやCD代に消えた。ハタチの頃に携わったサービスでも、毎月億単位で売上の上がるサービスの管理ツールを見てたけど(なお当時はグレー今は黒なジャンルです)、結局儲けたいとは思えなくて、フツーに給料はCD代とサッカー観戦代に消えてましたね。

残念ながら、商売のセンスや欲が無い。(涙

計画性がない自分は「目の前にあるホームページ良くする」しか出来ないのではないか、などと。計画が立てられる人間ならばもう少しまともに大人になっていたはず…。

ジオシティーズからはじまった僕の20年

20年前の文章を、20年後こうして読むなんてまさか思っていない。
こうして振り返ってみると、本当にあの「ホームページを作ってみる」という一歩、田舎の高校生の(自分の周辺にコンテンツになるものなんてなにもない!)のテキストが、
今の自分の仕事・生活・これまでに起こった「想像もしていなかった体験」すべてに繋がる。

あれが無かったら普通に地元の工場のラインの仕事かスーパーの店員さんでもして、毎日17時や18時に帰って、マイホームとかに住んでたんだろうか。…同級生に家族がいるのとか超超超羨ましいけど、でも自分にはそんな人生想像できないな。ある意味思い描いた通りの未来になっているのかも。
いや、結構旅行とか嫌いなタイプだったのでこんなに日本全国飛び回るようになるとは想像もしていなかったな(笑)
現実的に35歳彼女無し貯金もそんな多くないという現実が今目の前にあるのでww、このエントリは別に「サクセス・ストーリー」を記したものではない。
けど、自分が想像もしなかった多くの貴重な体験を、冒頭の――20年前のエントリを皮切りに体験させてもらった。普通の幸せには程遠いかもしれないけど、楽しい人生を過ごさせてもらっていると思います。

不思議なもので、あの当時はあの当時で「田舎の高校生の日常」のウェブ日記が数百人にとって「珍しい、日常で絶対触れることがないもの」としてコンテンツになってたんだよなあ、と今となっては思う。皆様お元気だろうか。自分が20も歳を取ってるんだから皆様も良い年齢なんだろうなあ。

そろそろ締めたい。「庭園」というコンテンツも何も「インバウンド需要が――」「日本文化が海外で今――」という背景をきっかけに注目したわけではない(巡り始めたのは約10年前)。
当時の「GRAPEVINE」というバンドと同じ。「こんなめちゃめちゃ良いものなのに、まだ誰もホームページやってないじゃん!?」
…また数年後、「こんなめちゃめちゃ良いものなのに、まだ誰もサービスにしてないじゃん!?」というものを見つけて、細々と「メディア」を作る――それがホームページなのかそれ以外かわからないけど――なんかそういうことを死ぬまでやるような気がする。

ビジネスじゃないから別に焦って探したりはしない。かと言って「誰にも評価されないかもしれない」ものではなく、「きっとみんなもいつか魅力に気づくはず」というものに熱を帯びる――んじゃないかなあと思います。
ビジネスとして成り立つ見込みが立てばちゃんとした企業がどんどん入ってくるし別に「自分が」こだわってやる意味はない。よく「多数決・最大公約数的に決まるものなんて面白くない」と言うけどそのとおりだと思う。
…でも組織でやるメリットはとにかく「リソースがあること」なので、組織が「目線」と「熱量」を持って運営できれば鬼に金棒なのは間違いない。

あ。言い換えると自分は「お金を稼ぐ」成功体験はまだないのかもな。「納得いく良いものを作る」成功体験はあったとしても。ロジックが分かれば――つかめれば――意外と楽しいのかもしれません。果たしてそれを見つけられるのか、「やっぱ才能無いわ〜」と思って別のことをはじめるのかわかりませんが。

…そんな風に人生を変えたジオシティーズ。最初やってた人はもう中に居ないだろうけど、それでも長い間おつかれさまでした。自分も最初の1年ぐらいで、途中からは広告が嫌で別のサーバーにしたけど、それでもジオシティーズがなければ始まっていなかった。
「平成最後の――」なんて言うけど、ジオシティーズの終了が自分にとっては平成最後を最も感じさせる出来事かもなあ…最後にあのフォーマットで、今しかできないキャンペーンページとか作ってみたいな(笑)

最後に。1年後の1999年10月11日の日記。

16歳の頃はメンがヘラってることに憧れがあったので(笑)なぜか「生きてていいのか」とか書いてますが、『ガチガチした考え方持ってたらアクション起こせるときに起こせなくなるからなるべくそういうのはないようにしてる』こんな一文を気になって文字起こしているのは――好きな言葉・目線は当時も今もそんなに変わっていないのかも(笑)

※いずれのキャプチャの画面は今もWeb上(geocities)に存在しています。15-6に書いている文章はこっ恥ずかしすぎてさすがにURLを張るのは憚られるのですが、「1998年頃の15歳のいちWebダイアリー」としては化石として面白いかもしれません。
サービス終了までにパスワード問い合わせてバックアップだけとっておこうかな…。